『PlayStation』誕生のきっかけは、発表48時間前の任天堂の契約破棄
2026年09月27日 | #ゲーム紹介 | DualShockers
任天堂とソニーは、かつてスーパーファミコン向けCD-ROM機器を共同開発する計画を進めていました。しかし発表を控えた1991年、任天堂は契約を破棄します。この決裂を経て、ソニーは独自のゲーム機『PlayStation』を開発しました。
スーパーファミコン向けCD-ROM機器の計画
1980年代、任天堂はファミコンで北米の家庭用ゲーム機市場を切り開き、ソニーはウォークマンや高性能テレビで成功を収めていました。ソニーはゲーム市場への参入に関心を持っており、両社が協力する機会を得ると、任天堂とともに計画を進めます。
セガとの競争を意識していた任天堂は、スーパーファミコンを強化するため、ソニーにCD-ROM機器の開発を依頼しました。CD技術に強いソニーは、すでにスーパーファミコンの音源チップSPC-700も手がけていました。機器の名称は「Play Station」で、1991年の家電見本市CESで発表される予定でした。
CES直前に任天堂が契約を破棄
発表の48時間前、任天堂社長の山内溥氏は契約条件を不利と判断し、計画を中止しました。任天堂はソニーではなく、米国企業フィリップスとの提携を選びます。CESのステージでは、任天堂のハワード・リンカーン氏がソニーとの契約終了と、フィリップスがCD-ROM機器を開発することを公表しました。
フィリップスとの計画も中止されましたが、提携によって同社は一時、任天堂のゲーム作品のライセンスを利用できるようになりました。その結果、ゼルダの伝説のCD-i作品が登場します。任天堂はその後、自社作品の権利管理を厳しくし、他社との共有に慎重になりました。
ソニーが強く反発したのは、計画の中止だけが理由ではありませんでした。契約破棄を公の場で発表されたことに加え、ライバル企業と組むのは望ましくないとされる日本のビジネス慣習を、任天堂が顧みなかったことも怒りにつながりました。日本のビジネス界でも任天堂の対応は快く受け止められませんでしたが、任天堂はセガとの競争を続け、ソニーもゲーム市場への参入を諦めませんでした。
ソニー独自のゲーム機として開発
ソニーは1990年代初め、セガにもメガドライブ向けCD-ROM機器の共同開発を持ちかけましたが、セガの幹部に断られました。その後、任天堂との関係を断ったソニーは独自のゲーム機を開発します。任天堂との計画で使っていた名称の権利が残っていたため、新しい機種は「PlayStation」と名付けられました。
ゲームソフトを自社開発していなかったソニーは、サードパーティーの獲得に力を入れました。3Dゲーム市場を任天堂と競うなか、広大な3D空間を描ける性能が開発会社を引きつけ、ファイナルファンタジーVII、バイオハザード、メタルギアソリッドなどの作品が集まりました。
1995年のE3では、セガがセガサターンを399ドルで発売すると発表しました。これに対し、ソニーの北米法人幹部スティーブ・レース氏はステージに登壇し、「299ドル」とだけ告げて退場します。価格発表で競合に対抗する演出は、その後のE3を特徴づける駆け引きの一つとなりました。
サードパーティー作品の充実によって、PlayStationは存在感を高めました。任天堂との協業計画の決裂から生まれたソニーの独自ハードは、2000年代のゲーム業界と、現在につながる市場の形に影響を与えました。